三溪園(神奈川)

夕闇にしっとりと浮かぶ古建築物と桜が見事に調和
- 3月下旬~4月上旬
- 夜桜
- 県内5位
- ★★★★☆3
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国指定名勝「三溪園」(所在地:横浜市中区)では『桜めぐり』を開催します。三溪園は、東京ドーム4個分(約175,000㎡)の広大な敷地に9種類約250本の桜が3月上旬~4月中旬まで順番に楽しめます。また、今年は3年ぶりに2022年3月25日(金)~4月5日(火)まで外苑の大池周辺の桜と古建築を中心にライトアップを実施。昼間とは違った幻想的な雰囲気の中で宵闇に浮かびあがる桜の花と歴史的建造物の競演は必見です!朝から夜まで春爛漫な日本の美をお楽しみください。
密集を避けてゆっくりと桜のお花見を楽しんでいただきたいとの思いから、例年混雑す るソメイヨシノの開花期間に開園1時間前から入園してたっぷり三溪園を楽しめる「開園 前の特別入園チケット」や、大池を彩るソメイヨシノに囲まれた芝生の広場でゆったりと 過ごせる「お花見ひろば」の区画販売を、事前オンライン(peatix)販売にするなど混雑を 避けて優雅なお花見を満喫していただける方法にして感染予防に取り組みます。また、 ソメイヨシノ開花の前後に咲く岐阜ゆかりの桜などを紹介することで分散して観覧していただき、安心して過ごしていただけるよう取り組んでいます。
※有料企画の収益は三溪園の維持・管理に役立てます。
毎年ピーク時には1日5千人を超えるお客様が来園し、園内はたいへんな賑わいを見せます。そこで、「混雑を避けて安心して桜を楽しみたい」、「ゆっくりと撮影に集中したい」などのご要望にお応えし、通常の開園時間より1時間早い8:00から入園できる特別入園チケットをご用意しました。
大池沿いのソメイヨシノが花開くと、三溪園を象徴する三重塔と大池からなる景色は、 いっそう美しさを増し、一年でもっとも華やかな情景となります。今年は感染対策のためシートを利用してのお花見は、この大池を彩るソメイヨシノに囲まれた芝生の広場のみとしました。予約制のため、お弁当などを持ち込んでゆったりとお花見を楽しんでいただ けます。利用の際は専用のシートを使用していただきます。
3年ぶりに外苑の大池周辺の桜と古建築を中心に開園時間を延長してライトアップを行います。ライトアップされた園内は昼間とは違った幻想的な雰囲気に包まれます。宵闇に浮かびあがる桜の花と歴史的建造物の競演をご覧いただきながらの散策が楽しめます。
※ライトアップは、18:30ごろ~21:00(入園は20:30まで)
皆様が安心して来園いただけるように、次の点に取り組んでまいります
三溪園は生糸貿易により財を成した実業家原三溪によって、1906年(明治39)5月1日に開園されました。約17.5ha(東京ドーム約3.7個分)に及ぶ園内には、京都や鎌倉などから廃仏毀釈などによる荒廃から守るために移築された歴史的価値の高い建造物が巧みに配置されており、現在、園内にある17棟の古建築のうち10棟が重要文化財、3棟が横浜市指定有形文化財に指定されています。今回公開する鶴翔閣は延床面積約 950㎡に及び、その広さは園内随一の規模を誇ります。また、合掌造りの旧矢箆原家住宅も、もともと白川郷(旧岐阜県大野郡荘川村岩瀬;現高山市)にあった延床面積約 325㎡の大規模入母屋茅葺合掌造りです。
開園当初から「遊覧御随意」を掲げ、外苑を24時間無料開放するなど、「美しいものはみんなで一緒に楽しむもの」という原三溪の想いが反映されています。三溪の存命中は新進芸術家の育成と支援の場ともなり、横山大観、下村観山、前田青邨らを輩出するなど美術への貢献も評価されています。戦災により大きな被害をうけ、1953年(昭和 28)に原家から横浜市に譲渡されるのを機に財団法人三溪園保勝会が設立され、復旧工事を実施、現在に至ります。2007年(平成19)には国の名勝に指定されました。
原富太郎(本名富太郎)(1868年/慶応4〜1939年/昭和14)は、岐阜県厚見郡佐波村 (現在の岐阜県岐阜市柳津町)に生まれ、1885年(明治18)東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学、政治・法律を学びました。その後、跡見学校の助教師になり、1891年 (明治24)教え子であった原善三郎の孫娘、屋寿と結婚、原家に入籍します。原家の家業を継ぐと、生糸輸出を始めるなどの経営の近代化と国際化に力を入れ、実業家として成功を収めました。実業家以外にも様々な面を持ちあわせた三溪は、住まいを本牧・三之谷へ移すと古建築の移築を開始し、1906年(明治39)三溪園を開園するほか、美術品の蒐集や芸術家の支援・育成を行いました。1923年(大正12)の関東大震災後は、 横浜市復興会長に就任すると、それまでの作家支援を止め、荒廃した横浜の復興に力を注ぎました。三溪自身も書画をたしなみ、その作品の一部は、園内の三溪記念館に収蔵されています。